心の傷の代償

 

ただひとつだけ、守れなかったものがある。

そのことだけが、自分の心を捉えて離さない。

…守りきれなかったことが、悔やんでも悔やみきれない。

 

俺は、命令をまっとう出来なかった…

 

江夏城の矢倉にふらりと出てきた簡雍はそこに先客がいることに気づいて足を止めた。

月の光を受けて映るその人影は、背後にふらりと現れた彼の存在に気づかず、ずっと欄干

にもたれかかって物思いにふけっていたようだった。

「…趙雲将軍。」

 しばらく黙ったままでいた簡雍はややためらったようにその人影の背後から声をかけた。

「!」

 突然名を呼ばれて振り返った趙雲は初めてそこに簡雍がいたことを知り驚きの顔を見せた。

「簡雍殿ではないか。いつからこちらにおられた?」

「今しがただ。やっと雑務から開放されたのでは、気分を変えようと思ってきてみたらすでに

将軍がおられたので驚いていたところだ。いつ声をかけたらよいか迷ってしまった。」

「申し訳ない、気づかずにいたようだ…。」

 趙雲は神妙な顔を全く崩さずに頭を静かに下げた。

「い、いや、謝らずともよい。すぐに声をかけてもよかったのだが、お主がいつになくずっと

そのまま月を見て物思いにふけっている姿を見るとどうしても声がかけづらかったのだ。気にするな。」

 逆に面食らった簡雍は気にするなというそぶりを見せたが趙雲の顔は冴えない。

「物思い…か。」

 そのつぶやきと同時に彼の瞳に哀しみの色が表れた。

「将軍…?」

 微妙な瞳の変化に簡雍は目ざとく気づいて首を横に振った。

夫人様のことか…?」

「…わかっていたのか。」

 簡雍に自分の心の中を読まれて趙雲は一瞬拍子抜けしたような顔を見せた。

「直感だが。…奥方様を救えなかったことをお主自身が責めているような思いつめた顔をしてたからな…。

だがな、責めるのはもう止せ。救えなかったことはお主の咎ではない。」

 趙雲はそう言われても沈痛な表情をしたまま、首を横に振った。

「確かに、阿斗様は無事にお救いして、殿のもとにお連れすることができた。しかし、あの時に、殿から奥方様お二方と阿斗様の警護を仰せつかっていたそれがしは、役目を果たしているとはいえまい。夫人様を阿斗様とご一緒にお救いでできなかったことは…それがしにとっては大失態に近いのだ。」

 うつむいた趙雲の肩が心なしか小刻みに震えているように簡雍には見えた。

「…このことは、それがしにとっては、決して消えることがない深い傷跡になって心の中に残るに違いないのだ…。」

 そこまでまくし立てるのがやっとだったかのように趙雲はしばらく絶句したまま肩を落としてうつむいていた。無理はあるまい。戦いの混乱に巻き込まれて守るべき主君のご一家を見失い、必死で行方を突き止め、一緒に連れ帰ろうとしたときに、足手まといを懸念した夫人が阿斗を託して趙雲の目の前で命を絶ってしまったのである。落胆しないほうがどうかしている。簡雍は頷いてしばらく無言だったがやがて口を開いた。

「ご主君が仰っておったろう。お主のような大将は決して得られないと。恐らく奥方様も同じことをお考えになったに違いないと思うのだ。それだから、自分がいることが原因で阿斗殿と共に将軍を失うことはどうしても避けたいとして最善の道を選ばれたのだよ。」

「しかし…。」

 反論しようとした趙雲を押しとどめて簡雍はなおも言葉を続けた。

「確かに、戦闘中に任務であった奥方様達と阿斗殿を見失って守りきれなかった将軍の責任は重い。しかし、将軍は阿斗殿を救い出したばかりか、あの曹操軍百万の中をただ一騎で突破して戻ってこられた。これも奥方様のお力なのではないかな。きっと…天にて喜んでおられるに違いない。」

「そうであろうか…。」

「きっとそうだ。だから、そんなに自分を責めるのはやめることだ。…とはいえ、生真面目な将軍のことだ、すぐにとはいかぬだろうな。」

 簡雍の目が普段のいたずらっぽい視線に変化した。それを受けて趙雲の顔に少しばかりだが笑みが戻ってきた。

「少しだけ、気持ちが軽くなってきた気がする。ありがたくご忠告、受け取っておきます。」

「堅苦しい挨拶は止せ。わしも、あのとき傷を負う気絶していたところを将軍に助けてもらった恩があるからそのお礼代わりとして忠告したまでだよ。気に留めずとも良い。」

 簡雍は照れくさそうに弁解すると邪魔したな、と言ってくるりと趙雲に背を向けた。

「そうだ、将軍。もうひとつだけ言っておこう。」

「なんでしょうか?」

「将軍は、わが軍にはなくてはならない存在のひとつであることを、これから忘れるなよ。」

 そういい残すと、簡雍は飄然と矢倉から姿を消した。

「なくてはならない存在のひとつ…か。」

 趙雲はそう何度もつぶやきながら再び江夏城を照らし続ける月を飽きるほど見上げているのだった。

 

 失ったものは確かに大きなものだった。

 しかし、それと引き換えに得たものは自分が思ったよりも遥かに大きかった。

 

 趙雲が人生で一番深い心の傷を残したものの代償として得たものは、自分の存在の必要性の大きさであった。

たとえ、その傷が癒されることが決してなくても、それだけは絶対に失いたくないものだった。

〜了〜